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「ネトウヨ卒業」「親がネトウヨ化」の表明は美談でも禊でもない

たまに、こういう記事を見かけることがあります。

 

「リベラル家庭で育った妙齢日本人女子が「ネット右翼」になるまで」王谷晶
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56628

 

「亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか」鈴木大介
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/?all=1&page=1

 

これらを読むと、本人や親が「ネット右翼」になってしまい、卒業した/そのまま亡くなってしまったという事実のみが綴られています。それについての経緯、恥ずかしさ、悲しさ、悔しさなどが記事のメインになっていることは明らかです。しかもどちらも美談として書かれているように読めます。

さて、ここで問題です。これらの記事で不可視化されているのは何でしょうか。
答えは「被害者の存在」です。

 

ネット右翼とは何でしょうか。特定の国々や民族を根拠なく貶める発言をネット空間に書き込んでいる明確な差別者、つまり「加害者」であることが、これらの記事からは抜け落ちていないでしょうか? そして、「加害者」がいるということは同時に「被害者」が存在するということです。これらの記事には、そこへの言及が一切ありません。
ネット上に書き込まれた心ない発言は、誰かを確実に追い詰めています。その結果、ひょっとすると最悪の事態に陥ってしまう可能性すらあります。剥き出しの悪意から発された言葉も、軽い気持ちで発された言葉も、同じように当事者の胸を抉る凶器なのです。

 

自分が、親が、誰か近しい人がネトウヨになってしまった。それはそれは大変なことでしょう。同情します。しかしながら、それによって最も大変な思いをするのは一体誰なのか、今一度考えて欲しいものです。

 

これらはネット記事ですが、世間話のような感覚で軽々しく発言されることもままあります。そこに当事者がいた場合、それは果たして軽い世間話に留まるでしょうか。
断言しましょう、なりません。ただでさえ増え続けるレイシストの存在に怯える毎日を過ごす当事者にそのようなことを伝えるのは、「身近にあなたを害そうとする人がいるよ」とかれらをさらに脅かす行為なのです。


恥ずかしいから、悲しいから、誰かに聞いてほしくて言いたくなる気持ちはわかります。しかし、それを表明することが禊になるはずもなく、ましてや美談になんて絶対になりえません。

許して欲しいのでしょうか? それとも被害者の存在なんて最初からまるで見えていないのでしょうか? 差別は許されないことです。被差別者について触れず、ただ事実として「ネトウヨになってしまった」と告げることは、果たして差別とどう違うのでしょう?

少なくとも私には、区別がつきません。