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エンタテインメントかくあるべし。FE風花雪月よ、“ポリコレ疲れ”に唾を吐け!

この記事を旧態依然とした姿勢を変えようともしない頭に黴の生えたエンタテインメントコンテンツ産業従事者に捧ぐ。

 

※この記事には重要なネタバレが含まれています。注意されたし。

 

 

1.はじめに


ファイアーエムブレム』といえば任天堂が誇る歴史あるシリーズで、根強いファンの多い作品だ。第一作目の主人公マルスは『スマブラ』にレギュラー出演している。ゲームをプレイする人ならば名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。

舞台となる世界は、ファンタジーのお約束ともいえる封建的な価値観を採用しているものが主である。それは最新作『風花雪月』においても変わらない。重要なのは、本作が、そんな伝統的な世界を従来通りに描きつつも、それがいかに古く、いかに偏見に満ち満ちたものであるかを明らかにしているところだ。

『FE風花雪月』の公式サイトはこちら。

https://www.nintendo.co.jp/switch/anvya/index.html

 

2.キャラクターが語る差別


本作の舞台となる世界「フォドラ」には、三つの国が存在する。プレイヤーは、ゲーム開始時にどの国につくかを選択しなければならない。これら三つの国は、ストーリー後半になると戦争状態になる。どの国を勝利に導くかはプレイヤー次第というわけだ。
各国には、物語上のパートナーとなる国王や皇帝、盟主といった重要キャラクターがいる。そのうちの一人、レスター諸侯同盟の盟主クロードは、複数のルーツを持つ人物だ。
ストーリーを進めていくうちに、彼はフォドラの人々がいかに異民族に対して偏見を抱いているかをプレイヤーに語ってくれる。また、クロードの父方の民族の国でもフォドラの者は臆病者と蔑視されており、幼少期をそこで過ごした彼は、混血であるという理由で差別されてきたというのだ。

 

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クロードは、二つの国を見た自身の経験から、国や民族、宗教が違おうとも人と人との間に差は無いと考えており、世界に蔓延る差別や偏見を取り払おうとしている。クロードが目指すのは人類の平等、平和が実現した理想的な世界だ。

人種や民族、宗教を理由にした差別が猛威を振るっている現代社会において、このようなキャラクターが登場するばかりか、メインに据えられている意味は非常に大きい。

なお、異民族のキャラクターは他にも何人か登場する。彼らがそれぞれに異なる価値観をもって生きていることは、クロードの言うように、人の在り方というものが国、民族、宗教によって決められるものではないということを証明している。

 

3.差別を受けるキャラクター


本作に登場するキャラクターは実に多様だ。恋愛に関心がある者もいれば、戦うことにしか興味がない者もいる。華やかに装うことを楽しむ者がいれば、古びたお守りを大事に思う者もいる。信心深い者もいれば、貴族の建前として信仰を利用する者もいる。誇り高い騎士道精神を重んじる者がいれば、それを思想統制の手段だと腐す者もいる。
彼らは極端にデフォルメされておらず、一個の人格をもつ人間として振る舞う。特にアドラステア帝国の元歌姫ドロテアは、このゲームを象徴するような複雑さを持っているキャラクターと言えるだろう。

『風花雪月』は封建的な社会──当然現代にも言えることだが──の抱える女性差別階級差別の問題についても軽視していない。
ドロテアが士官学校へ入学した動機は、簡単に言えば所謂玉の輿狙いである。そこにだけ注目すれば、不純な動機で入った不真面目な生徒にしか見えないかもしれない。しかし、彼女にとって玉の輿は切実な問題なのだ。
ドロテアは貴族の男性が侍女に産ませた娘だが、紋章を持たないからという理由で捨てられた(フォドラでは、紋章という血筋によって継承される特別な力が重視される)。貧民街で泥水を啜りながら生きていた彼女は、やがて当時の歌劇団の歌姫であったマヌエラという女性に見出される。その後は歌姫として大いに活躍することになるものの、彼女は貧しかった頃と今とで周囲の自分を見る目が違いすぎることに苦しみ、多大なる人気を得ていながらも歌劇団を辞した。本当の自分自身を見てくれる相手を求めて、士官学校の門を叩いたのである。

結局、ドロテアも裕福でなければ相手として価値がないと考えている、利己的な人物と言えるかもしれない。しかし、本作はそれを「くだらないこと」としては描いていない。物語世界が彼女に向ける視線は決して冷ややかなものではないのである。
貴族に苦しめられた彼女は貴族を心底嫌っているが、貧困の苦しさを知っているから、二度とその頃の暮らしには戻りたくない。美貌と技術で他人を魅了する以外に状況を打開する手段を知らず、誰かの手によって救われることを願う彼女を、誰が責められるだろうか。
実際のところ、ドロテアが本心から貴族と結婚しての贅沢な暮らしを望んでいるわけではないことは、支援A(特別に親密な相手)に出来る相手が貴族以外にもいるというゲーム的な仕様からもわかるだろう。プレイヤーであれば、性別を問わずドロテアと結ばれることができるのも大きなポイントである。

単純に士官学校に来て男漁りに勤しむ女性がいたとしても何ら問題はないのだが、こういった事情を織り込むことによって、裕福でない女性がどういう扱いを受けるかという現実に存在する社会の理不尽さをプレイヤーに想起させることが可能なのだ。

なお、ドロテアは戦いを嫌い、戦争が起きたあとは常に戦争によって苦しむ人々に想いを馳せている。プレイヤーがバトルに勝ち続けて気分が良くなっていたとしても、常に弱者の立場から物語世界を語るのである。

 

4.社会とエンタテインメントの在り方


『風花雪月』は、現実にある問題から目を逸らさず物語に組み込んでいる、日本のゲームには稀有な作品である。それでいてゲームとしての面白さは決して損なわれていない。
ストーリーに多少の粗はあるものの、シミュレーションRPGとして、キャラクター育成ゲームとして非常に完成度が高く、周回プレイに耐えうるクオリティを備えている。プレイヤーの行動によって変化する状況に応じて、イベントやテキストに豊富なパターンが用意されていることも本作の魅力の一つだ。

一プレイヤーとして、また一エンタテインメントコンテンツ産業従事者として、このタイミングでこのタイトルが発売されたことに非常に意義を感じている。『風花雪月』は、日本のエンタテインメントコンテンツの倫理観に疲れ切った人間に、ゲームとはこんなにも面白いものであると、久しぶりに感じさせてくれた。

そう、今も昔もゲームとは楽しいものだ。それ自体は変わらない。では、ゲーム内の表現も変わらないままでいいのか? そんなはずはない。今は変わらないことで失われる楽しさを問うべき時だ。
大事なのは時流に合わせて「よりよく」変わろうとすること。ゲームをプレイする楽しさは、本来なら誰にでも提供されるべきである。ゲームが古い価値観によって作られているということは、誰かの楽しむ機会を奪っているということに他ならない。
“ポリコレ疲れ”などという言葉が存在すること自体が噴飯ものであるが、そもそも日本のゲーム業界がどれだけポリコレを重視しているというのだろう? 本当に疲れるほどだったなら、この記事は『風花雪月』のゲーム的面白さについてしか触れることはなかっただろう。

エンタテインメントとは、権力を持つおおきな大人が古きよきノスタルジーに浸るためのオモチャではない。『風花雪月』は未だに過日の栄光に縋り付いて古臭いままでいようとする日本のエンタテインメント業界に、とりわけゲーム業界に、警鐘を鳴らしているのかもしれない。

 

5.おわりに


と、ここまで褒めてきたものの、『風花雪月』にも足りない部分は多い。思いついた限りを挙げて、この記事の締めとする。
ここに挙がらなかった問題もおそらくあるだろう。筆者が見落とした点が、人によっては重要であることもある。その事実も含めて、今後のコンテンツの作り手が誠実であろうとすることを切に願う。

 

①主人公(プレイヤー)の性別による問題

・主人公の外見が男女で差がある。
 →明らかに女性だけ露出過剰である。傭兵という設定からして胸元の露出やレースタイツは避けるだろうし、デザインと割り切るのであれば男性にも遊びがあって然るべきだ。

・主人公を選ばせる時は「外見を選べ」と言っているのに、実際には性別の選択になっている
 →単純に不誠実である。この表記を変更しないならばゲーム中でも外見のみの差として扱われるべきだろう。

・同性同士で恋愛関係になれる級長がエーデルガルトだけである
 →級長(後の国王などにあたる)は物語の二人目の主人公ともいえる重要なキャラクターであり、プレイヤーが仲良くなりたいと感じる可能性が高いのだから、支援Sはどちらの性別でも達成できたほうがよい。エーデルガルトのみというのは些か作為を感じる。

・主人公が同性同士で恋愛関係になれるキャラクターが男女同数ではない
 →男性主人公が恋愛関係になれるのは一人だけなのに対し、女性主人公は少なくとも三人以上候補がいるのはなぜだろうか。級長の件もあり、不平等である。プレイヤーの性別によって扱いの差を設けてはいけない。

②その他

・五年経過しても言葉が流暢でないペトラ
 →勉強熱心なキャラクターなので不自然に感じる。言葉の拙さをキャラクターの魅力とするのは危うい。

・ルートによっては、メインキャラクターがやっていることに対してフォロー(批判的な視線)が足りない
 →問題のある言動に対してほぼ必ずカウンターが入るのが特徴的に感じていた本作だが、帝国についた場合のルートではやや不足を感じた。他と比べてやっていることが極端なのだから、もう少し内側からの批判があった方が良いのではないだろうか。